詩について

わたしは詩だからこそ、よりゆたかに伝えられるものがあり、もっともわたしにできうる、したい創作だからこそ詩を書きつづけているから、そのように、けんめいに書いている方、書こうとしている方、読んでくださる方を大切に感じます。

より広く、文芸を、絵、絵画を、歌、音楽を、芸術、創作表現を、大切にされる方を、愛します。

詩は、日本も世界も国も言語も歌謡も、壁は越えられるものだから、古代から受け継がれ反発されまた試み創りだされ今このときまで、けんめいに表現し伝えようとほんとうにされた心感じられる言葉なら、みんな好き。
いちばん好きなのは古代歌謡、万葉集から伝えられてきた和歌。すなおに感じとればおおく、女性の、歌心ゆたかな言葉選び繊細な、優れた和歌。

今の会話ニュアンスも取り込んで、口語の短歌は軽やかで親しみやすい一方で、軽くだらけてしまいコピーライト、コマーシャルと区別がつかなくなったり、機知だけであれば川柳もどきになりもする。(詩も制約のなさに甘えた数多くのただの口語散文と奇抜さアピール)。面白さの印象はすぐ消えてしまう。

口語の短歌を短歌にし、詩を詩にするのは、言葉の音色、旋律、つながりとこだまと反発と転調と休止、沈黙。その緊密な感覚を、作者がどれほど聞き取れ授けられるか。美しいメロディー、楽章が作曲家にふりそそぐのは、修練と執念と才能と運命の授けものであるように。だからこそ短歌も詩も痛く美しい。

古典の文語から育まれ流れてきた水脈の美しさに、おおく触れ感動し、焦がれ真似て表現を重ね積みあげることで、口語表現の花は、日本語の土壌に深く根づきいた、美しさを香らせてくれると、わたしは思っています。特に口語詩は、外国語翻訳文のモノマネ作品は、ガラクタ。
そのことに無反省であると、悪意はなく努力して造り上げようと、懸命にもがいても、口語の詩行はその虚弱さから、ガラクタもどきに、化けてしまう、と思います。

短歌には現在もまだ文語表現を選ぶ歌人がいてその息遣いに触れる機会がより多いことと、語数の少なさ、音数のゆるやかな決まりごとが、口語のしまりのなさだらけぐあいを、いい意味で詩よりは弱めていると感じます。

詩歌の音楽、韻律、語感というのは。例えば古代日本語から受け継がれてきた「ゆき」。構成音の「ゆ」と「き」は響きの柔らかさとキツさが正反対だけれど。「ゆらゆらゆき」の詩句なら「ゆ」の音が生き、「ゆき、木、木、木」の詩句では「き」が生きる。詩作は語の音に耳を澄まし音が音を呼び起こし語を授けられ選び創る。

けれども詩を詩とするいちばん大切なものは、伝えたい想い、書かずにはいられない情熱の、強さと純粋さ、詩のいのちだといつも思っています。

それ以上に、人を想い、愛し、思いやるこころ。