「現代詩」という廃墟、暗喩の滅びについて

世間を知ることもこの世では必要かと、「現代詩」と名打つ年鑑誌、本など、買う気はないので図書館で借りて読んでいます。あれ、こんなにブアツイのに、どこにも、「詩」は見つけられないよ?
この世の現代の刊行物ではとっくの昔の現代に、「詩」はもう死んだのかな?

いい書き手、作品も、もちろんあるけど。「詩」は死にかけのよう。
特に新聞、文芸雑誌、におまけのツテで掲載された、高名詩人の作品は、「詩」と呼ぶには酷く、「詩」が死ぬ。

 こんな世捨て人がつまらぬことに口を出すのは、いま数少ない、詩を愛す、書かずにいられず、創り始めた人たちの、息吹く「詩」を、詩への深い想いもない者が、損ねるなと想うから、それだけです。

 批判ばかりは能無し感性欠如の暴露でしかないので。きちんと書くと最果タヒは選んで年鑑に載せた一編にも光り惹かれる詩才詩心があり。
詩集では

柏木麻里の「蝶」「密の根のひびくかぎりに」

見た目は別に根本は、現代詩に毒されていなくて、美しい響きの好きな詩集。

書き手によるとしても、現代詩の書き手は、短歌の書き手にくらべると、語感、音感、響きへの感性が(教学として拒否していると主張される詩人まがいは差し引いたうえで)、とても鈍感だと感じた。日本の言葉へのこだわり、学びが、翻訳マネで、欠けすぎているのでは?

一編だけで、わかるか?
詩は恋、出会い、宿命だから、
ひと目でなにかしら響き
わかり、結ばれる

「現代詩年鑑2022代表詩選」現代詩手帖思潮社も読み、詩心、美、純、音を聞き取れ詩を感じたのは

最果タヒ「恋は無駄死に」
松尾真由美「凍える雛のひとときのざわめきから(抄)」
峯澤典子「ひとりあるき」
三角みづ紀「幼いまま枝をひろげて」

読むのが苦痛な廃墟にも埋もれず光っていました。
「現代詩年鑑2021代表詩選」現代詩手帖思潮社も読み詩を感じたのは

赤司琴梨「羽化する声」
ぱくきょんみ「黒い羽が落ちている」
文月悠光「遠いくちづけ」

最果タヒ、松尾真由美の独自性優れた詩。全体は詩誌のトキメキは乏しく何十年間もの常連の瓦礫散文駄作はシニア別枠除外しないと苦痛でした。

あからさまな感は、
詩の黄昏過ぎて早や墓場

2021年代表詩選、現代詩手帖思潮社
那珂太郎「枯野の鼠」抜粋「9、雑誌編集者曰ふ。右の原稿を〈詩〉作品特集に組込むことにためらひを覚えるが、〈現代詩〉には形式内容ともに何の制約もなく、作者が〈詩〉と称すれば、これを斥ける根拠を示すのに苦しむ。その当否は読者の判断に俟つほかない。」

見識のようにみえて、編集者は「代表詩選」に〈詩〉として掲載しているのだから、何の見識もない。これが〈詩〉か? 長年の癒着と、権威に敬意ではなくおべっかしてるだけ。これが年鑑の代表〈詩〉か?この詩人の作品はおおく読み学んだ者なので言います。これは駄作。載せるのは雑誌編集者の恥。

現代詩手帖アカウントがツイッターのフォローを外してくださった見識に対するお礼として、書き留めます。
長年の〈詩人〉の地位と権威の惰性で、優れた〈詩〉を生み出せるなんてほど創作は甘くなく、研鑽と修練と感性を研ぎ澄まし続けても授けられるかどうかわからず、一作品ごとにいのちを授かるのが〈詩〉だろ?

〈詩〉の良さに拘りもなく結局は詩壇村社会の付き合いで掲載していたら雑誌が廃墟になるのは当たり前。年間代表詩選としながら〈詩〉って何んだかわかりません、当否は読者の判断を俟つなんてまるで国会答弁。載せる作者も恥。みずみずしい良い〈詩〉が数多く掲載から零れ落とされているのだろうなあ。

現代詩は暗喩の森、自慰自食のタコツボに溺れ過ぎたので、暗喩は滅びるほうがいい。

読んで「この数式解けない」なんて悩ませてくれる言葉遊びなんて詩じゃない

三角みづ紀詩集』 現代詩文庫206、思潮社。活発な詩活動をされている方の同シリーズを何冊か読みました。心に響いたのはこの本で、特に全編収録の初期詩集二冊「オウバアキル」「カナシヤル」がとても良いと感じます。痛みと書かずにはいられない想いの強さに言葉の音楽、詩が溢れ。
第三詩集「錯覚しなければ」も想いの強さに暗喩表現も加え優れていると感じます。その後の詩集も根底に想いの強さの自発的な音楽性が確かにありますが、現代詩の掟と盲信されている暗喩の森に踏み迷い、この人ならではの痛みの表現の強さが薄れているよう。
歪んだわたしの資質、感性、表現についての想いにも響いてくる詩を書いてきた人が、「現代詩」のより新しい世代の書き手にもいたんだと知って、嬉しくおもいました。

廃墟の外、墓場の檻しか、感じとれない気づけないのは、ただの鈍感。
現代詩村のまわり、彼方までひろがる、知らない気づかないところで今日も今も想いは生まれ、詩は書きはじめられていると知れ。