詩の生まれ出る泉、文語と口語に流れつづける音色と旋律

文語の美はある。能、歌舞伎にある、伝統芸能としての、美。その根を、引き抜き断ち切られるともろい。根無し草。干からび、生命力を失い枯れがち。口語の短詩形のうすっぺらさのように。けれども、そのあらわれが、今そのものか。どちらの良さも悪さも、吸いあげる野の雑草、咲けるかぎりの、花を。

現代短歌の文語表現について。伝統的な技法フレスコ画テンペラ画での絵画創作に似かようものなのかもしれない。より良い作品へ選ぶ道として、困難でもあり、安易ともなり、その作者次第。心に響く文語短歌は創られているのだし。口語にもわかりやすいから説明にもコピーライトにも化すワナがあるし。

文語作品を創らないわたしだけれど、心がけていることは、古代からの当然文語の和歌をより多く読みとり感じること。残され伝えられ生き延びてきた言葉の響きに宿るものを感じること。

昔も今も、歌、詩、なのだから、文法意味解釈は曖昧でよくて、言葉の響きリズム音色旋律の流れに身を浸し染み込ませ染まること。そうすると音感が必ずよみがえる。息づきだす。

口語で創作するときにも通奏低音、地下水、泉のように心にその音を聴く。創作力の源泉としてずっと大切に感じ心がけていることです。

もう一つは、自分が大切に思う作品、誰にどう批判されようとこの作品はいいんだと言い切れる、これまで生んだ作品を、読み返すこと。創作力が枯れてしまったかと不安になるとき、自分の表現、懸命に探し見つけ表してきた子ども、作品への愛、授けられた泉の音を思い起こすことも、大切にしています。

疲れしおれ枯れ死んでしまいそうな心の根に、好きな澄んだ透明な水を吸い上げて、きれいだ、と感じられる、いのちを保つための最低限の感情を生き返らせること。地上に芽吹き花を咲かせたいと思えるかぎり、心がけたいと願います。

わたしは、わたしの詩として公開した作品、詩集は、誰にどう言われようと、いい作品、いい詩集だと思い、大切に思っています。
あたりまえのことですが、つけ加えてしまいました。

ただそれは作者の勝手な思いで。
気づき、聴き、感じとりたいと、感じてくださるのは、自由な人、だからこその、心ばかりです。