詩歌の韻律と朗読について。

わたしは詩歌、詩、和歌が好きなので、また創作者としての感受性も深めたくて、いろんな朗読を聞きます。万葉集、和歌、フランス詩、ドイツ語詩、英詩、中国語詩、韓国語詩などの朗読を、聴き返し、感じています。
詩の韻律、詩の音楽は、黙読したときにもっとも美しいのではないか、と。

ウェブで、萩原朔太郎与謝野晶子、書き手自身の自作朗読を聴くことができました。ともに、詩人、歌人として、もっとも美しい韻律の詩と短歌の書き手です。
が、自作朗読は酷いもので幻滅します。作品の詩世界を損ねます。
声を響かせる朗読は、より良く伝えるための技術の訓練が必要な芸で、良い声と演じる技巧が不可欠です。自作だからといって、下手な素人の声がよりよく響くものではないのだと思います。

声の朗読を聴いて、良いな、好きだなとわたしが感じられるのは、女性の優しい柔らかなかすれがちな声の繊細な響きの肉声で、これは音楽の好みのようなものです。
詩自体の韻律の美しさとは、直接には関係ありません。
好きな詩も苦手な朗読者の声では、聞く気がしません。

音楽とともに歌われた古事記日本書紀記紀歌謡、万葉集の初期。そのあと楽器とともには歌われなくなり、詠まれる、音読される、黙読される和歌、詩にうつりかわるなかで、文字の音に対する感性、見つめ読みとり心で響かせる韻律に対する感受性は千年近く磨き続けられました。

優れた和歌の黙読するときの繊細すぎるほどの韻律は限りなく美しいものです。
同時にとても静かで微かなか弱い儚さの美です。
和歌の音楽性にこだわり続けた藤原定家百人一首は、かるた取りで歌われても(きれいな声の上手な読み手なら)美しく心よく聴けます。
朗読芸として磨かれるほどよりよく。
和歌、詩、そのものの韻律の美を、静かに黙読して、心で口ずさみ、心の、耳で聴き取るよろこびとは、またちがうものとして。
美しい器楽の旋律、声をふるわせ感情を込め歌いあげられる歌唱の感動の強さと詩歌の韻律の美とはまったくちがうもの。かけがえのないそれぞれの魅力を愛おしく思います。

外国語詩は対訳を眺めながらでも、意味を追いイメージの流れを感じとりながらでないと、それなしに声だけ、発生音、朗読だけを耳から流し込むのは退屈で苦痛です。
歌われるメロディー(外国語の歌詞がわからなくても聴けて感動してしまう旋律、演奏といったいの歌ではなく)無言の楽器が奏で響かせる音階旋律でも朗読はありません。

いっぽうで、深く感動した大好きな歌手、シンガーソングライターの、歌詞集に手をのばしてみても、がっかりして、読む気をなくしてしまうのも、とても良い曲と旋律と声の歌の作品と、とても良い文字の芸術文学、詩を、同じような似たものでしかないとまぜこぜにしてしまう思い込みのせいだと、わたしは思います。

言葉の音律リズム、韻律ねいろ、その流れとともにある、文字のかたち、言葉の意味、イメージ、想い、書き記されないことで立ちのぼる香りのような象徴、それら黙ったままそこに静かにある、息づく文脈ぜんたいの、かがやきささやき静かに清らかに流れてゆくこころの波のしずくを感じとることが、詩歌の韻律の美をしる、よろこびのように思います。