詩と短歌の文語表現

数日、近代歌人の短歌を数多く読んでいると、悲しカリケル、想ハルル、ケラシモ、カモ、カナ、ハモ、これらの日常からかけ離れた韻文文語は日常語散文口語のあまりにどこにでもあたりまえにあるあじけなさを、言葉の葉をくすぐり翻らせ光らせささめかせ舞い散らせる、微かな風の音のようだと感じます。

歌い手が歌詞に曲を添え旋律にのせ舞いあがらせるように。わからないほど、ずっと静かに。

音の鳴らし方の、約束ごとのように。知っている、望まれている、なつかしいものに、触れたときの、よろこびがあると、感じます。そよ風をふいに感じて、「風立ちぬ、いざ生きめやも」と、瞬間、無言で世界が姿を変えるような。

カナシカリケル、というと、悲しい、かなしい、カナシイとくり返すだけでは下降し沈んでいくばかりの言葉の意味の重さに、小さな羽があたえられて、カリケル、カリケルとその受け継がれてきた響きの浮力で、足裏が地面からすこし離れて、微風の音学の音符に生まれ変われるような、儚い喜びを感じます。

わたしは作品に文語表現をそのままの姿で表すことは選びませんが、使われ続けるその良さと響きあうものを、作品での言葉の表われのどこかしらに微かなものとしても息づかせていたいと願います。

読書メモ「近代短歌の鑑賞77」小高賢編、新書館柳原白蓮を知り感じとることができました。
柳原白蓮 二首
けふの日もなほ呼吸(いき)するやふとしたるあやまちにより成りしこの躯(からだ)
焼跡に芽ぶく木のありかくのごとく吾子の命のかへらぬものか

山川登美子、三ヶ島葭子(よしこ)、岡本かの子の短歌にも惹かれます。

読書メモ「石川啄木全集一 歌集」「同二 詩集」筑摩書房。雑誌「明星」時代、啄木十代二十代初めの詩集『あこがれ』は、憧憬、ロマン、感傷に満ち、詩才、文才あふれ魅力ゆたか。多くの詩が文語で書かれたことが、今読み返すうえで妨げとなってしまったと思います。彼に限らず島崎藤村の詩も同じように。

今も愛唱され続け、わたしも好きな石川啄木の短歌は、三十一文字だから、使われる文語もかぎられていて、わからない感はなんとなく薄らぎゆるせて、今使われない言葉の響きも、韻律として快く聞き流せる、のだと思います。文語だけの詩は読みとるために求められる努力に、軽やかさが壊されてしまうけれど。外国語の詩を翻訳しながら読むことに似て。