近代詩歌と現代詩歌、短詩のこと

良い短詩は、短歌、俳句という凝結できる韻律詩、形象詩にはない、この詩の姿でしか表せられなかったんだと訴える何かが不可欠と思う。

文語の美しさを好きで惹かれるけれども。明治大正の詩人歌人俳人の文語力と正面に互角に、言葉への細やかな感性で表現できるとは努力して学んでも私には思えません。育てられた口語自由律の茎に、感性の細やかさの限りを尽くして、文語の幻の花の香もそことなく漂う表現に精魂を込めたい。願いです。

近代と現代はほとんど時差がないのだから、詩も短歌も俳句も、近代作品がひろく親しまれ愛されるほどには、現代作品がマニアックな村でのみ相互認知しあうばかりに陥っているのは短的に作品そのものの質、込められた熱意の純に、差があるのではとないかと疑います。

近代と現代は敗戦終戦という境界線で区切られがちだけれど、地つづきと思います。言い換えると、心に響きうる作品が敗戦後の痛みにまみれた悲しい花たちがいのちをかがやかせつくして枯れた後に、漸減、激減、滅びてしてしまったのか、詩の花。

悲、美は、人の弱さに表わしうる限りのものを、感じ伝えてきた花。
楽、(醜、とまできめつけない)に、弱さをみず感じず隠し強がり酔っぱらえるのもまた、人の生き方あり方。詩も芸術も根づかず彼方へ立ち去るだろうけど。それはそれ。
個性、資質、好みの違い。人類世界史いたるところで変わらない。

けれども星の片隅かぎられた悲しみの土地でいつのときにも詩の菜の花のひと、花びらのくちびるの言葉ふるわせ美しく滴に託し、こぼす