詩を愛す。

韻律がきれい、美しいと、感動をよびおこし、はっきりとまたは潜在的に、こころの耳をくすぐりゆたかなよろこびを生みだせないのは、言葉の芸術、詩歌としての、最低限のレベルに届けていないのだとわたしは思います。

はっきりと誰にでもわかりやすい定型押韻として、期待され繰り返し遂げられる誓約遵守の脚韻のあきらかな快い音の響きあう喜びは日本語の詩歌には表面的にはあらわれず感受しがたいのは、韻律の美の極みのありかがことなるためで。

母音が五音、子音との交じりあいの現われの音が、五十音くらいの日本語の、音のあらわれを貧しいと思え決めつけてしまえるのは、言葉の芸術の響きの美についての、その人自身の感受性の貧しさの表明に過ぎないと、わたしは思います。

音楽の音階が、例えば西欧音楽ではドレミファソラシドしかなくても、シャープ、フラットや、リズムの変化で、無限の、美しい自由律音階、響きあう階音、旋律の美を、創りだせるのと、とても似かよっていて。

日本語の詩歌の旋律、諧音、響きあい、リズムの、自由律の音韻の変化に満ちた限りなく細やかで澄みとおる、ふるえの豊かさにみちた旋律の美を、授かり感受しあらわし伝えたいと、いのちをかけ創らずにいられず、聴きとれる歓びに響きださずにいられないのが、詩歌を愛せる人の深く尊い業だと思います。

音楽、好きな旋律、リズムを、きれいだな、いいな、美しいなと、感じずにいられないように。
言葉の響き、音、響あい、鼓動、リズムは、きれい。こころの耳を、息を、鼓動を、愛する人のささやきを、吹き込み、わけのわからない貧しいいのちをも、生きさせてくれるから、詩を愛す。