人間の、表現。絵と詩。

「ぼくはモダンな芸術など存在しないことを知っている。存在するのはひとつの芸術―不変の芸術だけだ」『エゴン・シーレ まなざしの痛み』カバーそで。水沢勉、東京美術。1911年9月1日付の叔父宛の手紙にある彼の考えた格言、共感する言葉の一つです。(この画集は彼の核を捉え美しくよいと感じます)

私もずっと思ってきたので共感する言葉でした。「現代」の名を冠することで目新しさを押し出そうと露骨なある一時期の諸ジャンル、現代詩、現代音楽、現代演劇に、芸術の不変性が欠けていてつまらないのはこの本質を忘れていて鈍感だからではないでしょうか。だからいつまでも現代と週刊誌みたいに。

AI全盛の現代に。芸術家の言葉の棘を。
「ぼくは、あらゆる肉体から発せられる光を描く」
「エロティックな芸術作品にも神聖さが宿っている」
「芸術は応用されることができない」
「ぼくの絵は神殿のような建物の中に置かれなければならない」
伊藤直子訳編『エゴン・シーレ 永遠の子ども』八坂書房

北海道立近代美術館データベースの深井克美の絵「バラード」の画像は、持っている本の写真と比べると赤みと影が濃いので、いつか、彼が描いた絵そのものを見ることができたらと、願っています。

人間だからこそ感じとれる感じてしまわずをえない、痛みと美は、ほとんどいったいの、影と光だから。
言葉によるさまざまな表現芸術のなか、詩でこそ強く伝えうるのは、その痛みと美、影と光、だと思います。

文月悠光詩集『パラレルワールドのようなもの』思潮社、には、痛み、痛みを感じとろうとせずにいられない想いの強さが響く、きまじめさが表現の根底にあり、商業的な採算を度外視した懸命な表現者魂が失われず息づき伝わってきて、良いと感じました。