石川啄木と八木重吉。花、星のひかり

石川啄木八木重吉を、全歌集、全詩集で、読みかえしたいと思っています。十代のわたしが手近な文庫でくり返し読んで詩歌を好きになったのは、彼ら二人と、高村光太郎。敬愛する気持ちはいつまでも変わりません。

詩「涙」
つまらないから
あかるい陽(ひ)のなか
にたってなみだを
ながしていた 
『貧しき信徒』八木重吉

なみだを ながす
この日本語の言葉の、「なみだ」と「ながす」に響きあう一文字目の「な」の頭韻、音の響き合いは、とおいむかしの言葉の泉で、結ばれていたように感じてしまうほど、いまも自然で美しく感じられます。錯覚かもしれません。ほんとうはどうだったか、もう誰にもわからないけれども。

折口信夫は、日本語について、もっとも学び、もっとも深く感じたひとだと思っています。同時に、彼はときに、すでにわかりようもない過ぎ去った時のことについて、断定、断言してしまうのは、いさぎよさ、潔癖さ、自分の言葉に責任をとる意思だと感じるけれども。
いまにいるわたし、ひとりひとりに、すでにわかりようもない時のことは、素直にわからないと言うべきとわたしは思います。

大江健三郎の小説に「走れ、走り続けよ」(正確ではないかもしれません)があって、なんでこんなつらいことをし続けなあかんねん、と思いつつも。ラグピーをしていた十代のとき、土日を休んだあとの月曜のダッシュはつらいものでした。
毎日の基礎練習を続け積み重ねてこそ、スポーツも芸術も、晴れの、一度限りの、優れた表現をしうるのだと思います。文芸は、誰もにわかる言葉に甘えがちで、基礎練習の積み重ねを怠りがちだと思います。できうる限り毎日読み、毎日書くことが、優れた作品が生まれてくれるためには不可欠と思います。

生きていることも。なんでこんなつらいことをし続けているのか、と、くり返し感じますが。し続けてはじめて感じとれるようになるなにかも、あったから、これからもあるだろうから、まだ、し続けています。
小学性の言葉のようですが、いちばん大切な、生き続けさせてくれて、励ましてくれるものは、なぜだかわからないけれども、好き、だと感じてしまう、気持ちだと思います。

わたしは、花、星のひかり、のように、儚く、きれいな、この世にさえ、あってくれるものをかんじとれることが、好き、ささえてくれるものは、ただそれだけです。

うたも。
The Beatles 「Here, There And Everywhere」
俗な歌詞、俗な心にこそ、人の、詩は、ある。
子どももおとなもへだてず、こえて、心に響いてしまう、詩。