言語芸術の美。リズム・韻律と音・調べ

実用言語、ビジネス言語、多国籍意思疎通言語としての英語米語は生活に有用で活用すれば役立つけれどそれはそれ。言語芸術の美は次元が別。音楽、ポップではリズムと強弱で凡庸を隠せても日本語の詩歌を美しく心に響くものとしつづける詩歌の創造の世界は日本語そのものを感じ響かせ奏でることが生命。

FMラジオで洋楽番組を聞き始めたころDJが流ちょうな英語を交えながら、英語的なクセにゆがんだ発音の日本語を話すのが印象的だった。米国生まれやそこでの生活経験がながい英語の達人にはときおりそのような日本語を話す人がいるとその後知った。関西育ちで関東生活が長くなったわたしが大阪の友人「関西弁の発音がへん(おかしい)」と指摘されるのは、おなじこと。言葉の発音は微妙で変化しやすい。

松浦友久が『リズムの美学 ―日中詩歌論』『中国詩歌論』で繰り返し、詩歌の韻律・リズムは数千年の時を経ても、広大な中国の地域をこえてあまり変化しなかった根本にあるもの、逆に言葉の音・発音・音色・声調べは時代地域で変わりやすく変わってきたとの趣旨で伝えているのもこのこと。日本詩歌の五七五の音数律、万葉時代からの五十音体系の変化、日本各地域の発音のちがいの大きさが標準語で弱められつつあること。

だから詩は韻律、リズム、音数律さえあればよいというのは短絡的で、詩を貧しくする。現代詩が言葉の「意味」を軽んじてひどく貧しくなってしまったように。言葉の音・発音・音色・声調べ、そして言葉の「意味」も
リズムとともに、詩の本質にあり、言葉を詩の美に高めるもの。儚く移ろいやすくとも、美は音楽。美は意味。美は詩。美は美。