詩歌。現代短歌と現代詩。

日本語の個性から生まれでて育くまれた詩歌の表現技術のひとつ、掛詞を大切に思っています。詩「羽おと」の、初句、
「コブシひらき」は、コブシの花が咲くと、手のひらのこぶしが開いた、を重ね合わせています。
最終二句
「空の/あなたまで」は、空のずっとむこう、古語の「あなた」と、
亡くなり天国、浄土、涅槃、救われる遠いところに今こそはいてくださいと願わずにはいられないひと「あなた」を、重ね奏で伝えたいと願い書きあらわしました。

わたしは詩歌といえる、詩も歌も感じとれる表現こそ豊かで心に響く優れた表現だと思います。

そのうえで、現代詩より現代短歌に惹かれてしまうのは、現代詩が賢い頭で言葉の組合せの綾を弄び淫し自嘲しつつそれでも賢くて凄いだろと、高等遊民であると思い込んだ高みから普通の人を馬鹿だと見下げる傲慢さに閉じこもりカチコチに枯れてしまっていて、感情、想い、感性、感受性にこそ、詩心が宿る、美しい、ほんとうの、善くあれるかもしれない、希望、願い、心の響き、音楽、心の絵、色彩やどる詩歌、ポエムであることを、高学歴お勉強知識こそ優れているという世俗の常識エリート高学歴崇拝社会に侵され、忘れていて気づけず衰えているからです。

現代短歌には現代詩が見失った、伝えずにはいられない想い、美しくありたい、ほんとうのなにかを見つけたい、できるなら善く生きたいという、人の根っこの心の、まじめさ、願いを、言葉でなんとかあらわして人に伝えたいと恋う、切実さが響き伝わってきて共感してしまい、きれいだなと惹かれます。

人類史で心に響き続ける詩を書き残さずにいられなかった人物に、生きていた社会でそこそこのエリート先生と認められ満悦安住できていた者などいなかったし、そんなところにまともな詩は生まれようがないとわたしは思います。

閉塞村の中で、ノーベル賞であろうが数限りない賞を作って与えあって満悦していたところで。泡。

キツイことを言いながら、それではおまえ自身はどうなんだよと、今もほんとうの詩を生みたい伝えたいと願わずにはいられない、わたし自身に問いかけているから、キツく言わざるをえないのだと。